失われたトーン

一日部屋にいればテレビを見たりネットを見たり気分が沈んでしまうことばかりなので東京都写真美術館でやっている「芸術写真の精華」を見に行くことにしました。

友人から「とてもよい」という評価を聞いていたので「生き残っているものはいいものに決まっている」くらいに思っていたのですが、期待以上の感動にただただ圧倒されました。

さてプロフィールの但し書きにあるとおり、このブログは知り合いに僕の近況を知ってもらうために書いています。30年あまり写真を撮ることで口に糊をしてきたオッサンの雑感であり印象なのでアカデミックな評論ではないことをご承知おきください。

のっけからやられました。

「すごい」のひとことです。

「日本のピクトリアリズム 珠玉の名品展」という副題がありますが、それどころじゃない。

模倣する見本もなく、目指すべき名作もない時代に「写真というメディアでどのような表現ができるのか」という挑戦と、その完成度には驚くばかりです。

自由でおおらかで探求心とよろこびに満ちた表現。

そして偶然を期待しない作画とこだわりには強い共感を覚えました。

オートマティックに写真ができあがってしまう現代と違って、手間がかかる、時間がかかる、お金もかかる時代に、自分のトーンを模索して突き詰めていく姿勢には脱帽です。

もちろん偶然性も写真の面白味のひとつではあるのですが、そのようなものに期待する気持ちを微塵も感じられないひたむきさは見習わなくてはならないと思いました。

そして被写体に依存しない表現は、「写真」という、このメディアの一面性しか表していない日本語訳がもたらした視野の狭窄を打ち砕いてくれます。

これも気持ちがいい。

ていねいに仕上げられた作品群を見ていると、なぜいまアナログへ回帰したり、古典技法に執着する人が増えてきているのかがわかるような気がします。

1970年代後半に起きた銀の高騰から感剤メーカーは銀をいかに少なくするかという取り組みをしてきました。そして、その結果、大切なトーンが失われてしまいました。印刷では見ることのできない世界がオリジナルプリントにはあります。思いを込めた一枚には人を引き込む力があります。その力を撮る側も見る側も求めはじめているのではないでしょうか?

そういった世界に魅力を感じる人は一部かもしれませんが、そういった世界もまた写真であると思うのです。

ピクトリアリズムという言葉は展示されている作品群が作られた時代にはありませんでした。むしろ、いまになってクローズアップされたというか、敗戦後に台頭したリアリズム至上主義によって排斥されたものが見直され、それがいま、ピクトリアリズムと呼ばれているのかもしれません。

とにもかくにも美しい。

トーンとともに僕らは大切なものを失っていたのかもしれませんね。

なかでも気に入ったのは小関庄太郎という人の作品でした。

勉強不足で今日初めて見たのですが、この絵心にはやられました。

2Fでやっている幕末から明治初期へかけての「夜明けまえ」という展示と一緒に観たのですが、このふたつを見比べることで、写真が表現としてブレイクスルーした課程が・・・いや、サルの祖先からヒトへと分化した課程のようで中間は見えないのですが飛躍と情熱に鳥肌が立ちました。

福原信三の「西湖風景」に添えられた彼自身の言葉を紹介して説明の終わりにしましょう(名字は同じですが関係はありません)

光と其階調は写真に於ける「ア・プリオリ」である。同時に光と其階調は私達自身である。即ち光と其階調の中を歩まんとするものでもなく、それと共に歩むのでもない。またそれを探し廻る事もいらない。私達は光と其階調するのである。

あ〜びびった・・・

ものすごくインスパイアされ・・・猛烈に写真を撮りたくなりました。

結局、昼前から見はじめて・・・メシを食うのも忘れ・・・4、5時間は館内にいたのではないでしょうか・・・美術館を出た後も、この感動を誰かに伝えたくて・・・歩いて代官山のFOTOCHATONへ・・・

やはり話し相手は昔からの写真仲間ですね。

そして・・・

どういうわけか・・・

魯山人料理王国」とFOTOCHATON特製のチロルチョコを買って帰りました・・・

なんでだ???